昭和五十年九月二十九日


x御理解第十八節
此の方の事を神々と言うが此の方ばかりではない此処に参って居る人々が皆神の氏子じゃ生神とは此処に神が生まれるということで此方がおかげを受け始めである皆もそのとうりにおかげを受けられるぞ。


皆もそのとうりのおかげを受けられるのですからこの方がおかげの受けけ初めとも仰せられるのですから、結局この方の様な心がけ、此の方の様なありかたに成らせていただく精進をすることが、皆もこのとうりのおかげが受けられると言う事になるとですね。
ただ信心をして居るからと言うだけではいけん。やはり此の方のような、生き方、心がけにならなければ此の通りのおかげが受けられると言う事はない。
昨日、一昨日、竹内先生から電話が掛かってきた。ある信者の方が、この方は兄妹とも、兄さんも人から何々先生と言われる様な尊敬される人らしい。妹さんもあらゆる教養を身につけたその先生の資格を持っておられて、伊万里では二人とも有名人であるわけです。
その御兄妹が見えましてからね、その妹さんの方の何々先生と言う方から病名の付け様のない様な病気、この背中の骨がね途中で出てくるような病気だそうです。それでもう体中が動かなくなったり、痛んだり痺れたりする。それで何とか市立病院に入院したところが、他の方達と待遇が同じだと言うわけです。まあ言うなら自分は偉いのに、然も特別な病人なのに、サービスが悪いというわけです。
自分は少し偉いのだから、偉く取り扱ってもらわにゃ出来ないというなら病院にいうけど、そんな訳にいきませんと言うので、皆一様に扱う、と。そこで市長を動かそうと言うことになって、その市長さんの所にみえたのです。市長のお声がかりでもちっと大事に取り扱う様に、病室も一番良い病室に入れて欲しい、とこう言うような事を市長をとうして言うてくれ、と言うて見えたということです。それでその事は別にして、信心の話をされて問題はあなたがたすからにゃならんのだから、実は私の方はこうして合楽にお参りさせて頂いて居ると言う事を話された。それで昨日はなら兄さんが一緒について参ると言う事にいうて居られますからと言う電話でした。
ところが昨日は当のご本人も一緒に参って見えまして、兄さんは何か穏やかな感じの人でしたけれども、妹さんの方、病人さんの方は、なんとはなしにそんな感じの人でした。
まあ俺は偉いんだぞと言ったような感じの人でした。それで私は色々お話を聞いていただいたのですけれども第一にね祈念、祈祷をしてもろうて、助かるというのではないですから、話を聞くことによって助かる、話を聞いて、ああ自分は間違うておった、間違うておったと気が付かせて貰って改まる所からする道が開けてくる。そこから思いもかけないおかげから医者も助からん、病名もつかんと言うような不思議な病気もおかげを頂いていくと言う事になるだろうと、まずあなたはね、一つあなたが持って居るプライドを捨てなければいけません。
いや、どころか自分自身というものを、極めていったら本当に私のようなものが、と言う事になる。そこから例えば取り扱いを受けると言う事が、本当にもったいない、と言うことになるのです。まあそう言う事を話しましたら、非常にわかられた頭の良い方ですから、わかられたように感じました。
もう昨日は竹葉会の方達が、今日の生誕祭のお年寄りの方達に上げるお菓子を家で作ろうと言うので、皆午前中お菓子作りで、午後からはいつものように信心研修でございましたからあちらへ参りました。そしてその伊万里から見えた竹内先生と三人とも共励殿でしたから、あちらに見えて、一緒にお茶を上げましてね、そして私がお話させてもらう、皆さんが色々信心の発表をなさる中に久留米の佐田さんが発表なさいました。そしたら誰の話よりも、えらい関心を見せられたのは佐田さんの話しでした。もう顔を見ながらこんなに合点しながらきいとられました。その感心してきいておられるなかにも、とにかく、先日北野の信徒会の研修の時私が発表さして頂きましたあらかたを話さして頂きました。なかにもおかげ話というのも勿論だけれども、私は神様の御用に使うて頂くと言う事、先日の御理解の中にも同じ仏様、神様だというても狐を使ったり、蛇を使ったりと言うような神様もある中に、此の神様は人を使うと仰せられる御理解を頂いたが正しくその通りだと私共信心させていただくものは、その神様に使うて頂く私達にならなければいけない。神様にお使いまわしを頂きたい、いうならばお役にたちたい立ちたいという一念を燃やすことが、おかげを頂いた者の当然の事として言うなら合楽示現活動のことも話しましたが、善導を受けて、勿体ないのおかげを頂いて、そして椛目、心に喜びの花をさかせる。その喜びの花を常に持ち続けて、此処までのおかげは金光様の信心をして居るほとんどの人がおかげを頂いて居る、金光様でなけりゃいけん、金光様のおかげを頂いたという人は沢山あるけれども、此処に止まらずにもうすぐ其処に見えているところの合楽のおかげ、言うならば神様も助かってくだされば、私共も一緒に助かられると言う合楽示現活動に参画させていただくと言う事が、とりもなおさず神様に使うて頂くことだという話をなさいました。そしたらもう同じ列に並んで居られましたが、こんなにしてから、合点しながら聞いておられた。
本当に私はそうだと思いますが皆さんね、本当にね、確かに狐、狸を使うような、蛇を使うような、神様も仏様もござる中に、この方は人を使うと、これは日田の堀尾先生の有名な御本の中にね、神人を求めたもうと言うような言葉がありますね、神人を求めたもう、いきなり誰も彼も使うと言う事ではないと言う事です。如何に使うてください、使うてくださいと例えばいうてもです。
なら神様の御用をさせて貰う、お給仕をさせて貰うのに、汚れたくっといて妙な器量の人がどうぞご飯を上がってくださいというたって気色の悪うして、お替えでもしてもらうごとないのと同じことです。やっぱりこざっぱりとした綺麗な、いうならば感じの人がです、お替えをしてくれると一杯食べるとこが二杯つい食べるのと同じです。神様の御用をさしてもろうて、汚れたくっとちゃいかんから、そこでまず清く美しくならして貰う、限りなく清くならして貰う心がけに成らしていただいて、そしてお役にたたせて、どうぞお役に立ちたいという願いを持てと言う事です。
昨日竹葉会の方達に、皆聞かせて頂いた、どうですかあなた方は丁度いま子供さん達が、皆まあ小学校、中学校、とまたは高校の子供さん達の母親達ばかりであるがどうですか、自分の子供を本当にお道の御用に立てたいと思うてある方がありますか、どげん思うですか、というて一人一人私が聞かせて貰いましたが、顔色が変わる人がありますよ。とても私は金光様の先生なんてなさにゃならんなら、もう信心を止めてしまうといわんばっかりの顔をする人がおおかったですね。いえ私は神様が使うてくださるなら、それこそ三人子供が居るなら一人ぐらい、二人子供が居れば、いや一人息子でも神様がお道の御用ども使うて下さるというならば、いつでも喜んでさしあげますというか、御用にでも使うて頂きたいと言う人は一人もなかったです。甘木の初代はおしゃっとられたそうです。本当にお役に立たせて頂くためには、お道の教師にせにゃいかんと。そのためには二人目とか三人目とか、又は一番すそ子は大していらんもんじゃから、お道の教師にするとじゃでけんち、お初穂の一番長男からお道の御用にでも使うて頂く心がけにならにゃでけん、という風に教えられたと言う事ですね。もうこれはどげんなったちゃよかけんでそれば○○○ちゅうとじゃもうお供え物と同じ事、もういらんとばお供えしよると同じこちゃけんそれじゃでけん。一番初めのお初穂の子供をお道の御用に使うてください、というような願いを持てとおしゃったそうです。皆、信者に。だからあれだけの沢山の修行生ができられたのです。皆さんどうでしょうか、沢山子供が育ちよるが、ほんの一人くらいはお道の御用ども使うて呉れる様な子供が出来るなら嬉しいけれども、有り難いけれども、と言った様な願いをかけられている方があるでしょうか、此処にも何人かはあります。
毎日お届けされます。ならそれでもです、如何に使うてくれというてもです、今言う様に汚れ果て取るものは、神様が使いなさらんということです。
昔からお寺の坊さんに出家すると、七代前の先祖が助かると言われる程し出す。人の難儀が取り次ぎ助けられる、人が助かって行くという様な直接のお取り立てを頂くと言うのですから、家のほんとにどういうめぐりのある家でも、そのことだけでも、お取り払いが頂けるという風にも頂ける訳であります。そこで私は皆さんに一通り聞き終わってから言いました。皆さん御祈念の時に、世界真の平和を願うたり、世界総氏子身の上安全を願うて居られるでしょうと、そんならば直接です、本当に神様の願いを、氏子に取り次がして頂く、取り次ぎが出来るくらいの信心、お取り次ぎもできれる、本当に出きれる、子供達のお育てを出きれる願はなければ真実性がない、実がないじゃないですか、いかに世界真の平和を願っても、如何に世界総氏子身の上安全を願っても、その事を専門に、そのことだけを只ひたすらに取り次ぎ願わして頂く、例えばお道の教師になりたいとか、そう言う子供に一人だん頂きたいと言う事になりたいと、例えば無くて世界真の平和、世界総氏子身の上安全ほんなこちゃないじゃないのと言う様に話したことです。今日は私は皆も此の通りのおかげが受けられると仰せられる、ならばまずは教祖様この方ご自身のことをこ此の方と仰せられるが此の方の様な在り方を身につけるような、まず先決だと、金光様の信心しよれば誰でも生神にするすると言う事じゃないということをね。
この方のような在り方、生き方というものを身につけさせていただく、いうなら真似させて頂く様なと言うことになっておりますとです、ね、実意丁寧神信心させていただくいわゆる慢心があったりプライドばかりが高くて、程度の低い、高いと、自分は如何にも偉そうにしているような 考えのかたでは、このかたのような、と言うことには成ってこない、それこそ無学の百姓とご自身で言って居られる様な自分というものをギリギリ見つめて、私のような者でもお役にたつならば使うて頂きたいという、その謙虚な心にまず成らせていただく稽古をしなければいけません。伊万里の昨日はじめて参って見えた方の例を持って聞いていただいたですね。
次には佐田さんが発表された神様は人を使わせ給うのですから、それからというて誰彼の見境もなく使はれんのですから、まずは狐やら蛇やらといったような心がおたがいのこころのなかにある。執念な蛇を持つような、狐のように狡いような心が自分の心の中にあっては、神様はよう使いなさらん。だからそう言う心を取り除かせて頂く稽古をさして貰わなければいけない。同時に願いとしてはです、今申します様に子供の中に一人ぐらいはお道の御用に、の様な子供を頂きたいものだ。そう言う御用をして呉れる子供があってくれればやれ嬉しいと言う様な心の状態、又はそう言う願い、祈りを持たなければいけない。よその人は金光様の先生になったっちゃ、うちの子供だけはそう言う事は出来ないから、と言う様なね鬼子母神的な考え方では、私は此の方の真似することすら出来ないのですから、総生神に成るというお道の信心その事を、この方の通りに、この方のことを生神、生神と言うが皆もその通りのおかげが受けられると仰せられるにですから、ならその此の方と言われる、教祖の神様の真似事でもさせて貰はにゃならん心ば○○○というものです。教祖様が感じられたであろう、思われたであろう、というようなです、言うなら世界真の平和を願い、世界総身の上安全を祈り願わせてもらうならば、その事に本当にかかられる、その事にもいよいよ専念される、いわばお道の教師にでもおとりたていただきたい、いや自分の代には出来なかったからせめて子孫、孫にでもそういう尊い世話をしてくれる様なのが出来たら有り難いとそれを願うて行くくらいな、私は気持ちがなからなければ、この皆も此の通りのおかげが受けられるぞと言うことにはならんですね。
                                                               どうぞ